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恐怖心はどこからくるものなのか?

子供と大人ではまったく異質なもののように思う

子供のころは単純に

刃物が怖い、未知なるものが怖いだったと思う

刃物が怖いのは怪我をするから

死をもたらすものであるが、死が怖かったわけではないように思う

大人は死に対して恐怖する

もちろん未知なるものということもあるだろうが

それ以上に守るべきものが守れなくなるとか

そういうことではないだろうか?

僕自身、大人への移行過程、大人になってからしばらく

本当に恐怖心はなかった

死んだらそれまでだ

だから何なの?

程度のものであった

なげやりな考え方であったのも事実

でも、守るものができたときに変わったように思う

今現在は死が何より恐怖を感じる

僕が死んだらどうなるんだ?

実際は僕なんか死んだとしても

別にどうということはないんだろうけど・・・

これから先、年齢を重ねていけば

死を受け入れることができるようになるのか疑問です



「悟りを啓く」

と言いますが

いったいなんなんだろうか?

昔から悟りを啓くために

いろいろな修行を繰り返す偉人達

実際に悟りを啓いた人、無理だった人

悟りを啓いた人にあやかりたいと

同じような修行に励む人

でも、悟りは人によって違うものではないのか

ある人は、生きる目的

ある人は、人間とは

ある人は、人間関係

人によって違うものを人と同じ事をして成し遂げよう

とは虫が良すぎると思うのは行き過ぎた考えなのかな?

宗教で言えば「悟り」なのだろうけど

今風に言えば「気づき」なわけで

別に修行をしなくても

あるときフッとひらめくような感覚で悟りが開けるのでは?

僕が思うのは神社とかに行ってお願いしているうちは

望みはかなわないのではないかということ

他力本願では無理だと思う

神社とかに行けば「パワースポット」と呼ばれるところもあるわけだし

文化的に重要な建築物とかもあるわけで

行く事自体には何の問題もない

むしろ、行くべきだと思うのだが

お願いしに行くのが理解できない



幸福であるのか、不幸なのかは

本人の気持ちしだい

だとしたら、いつも感謝の気持ちを持つことができたら

幸福に感じることができるはず

感謝の心を忘れた時点で

不幸へと突き進んでいくのではないだろうか

そこで、気づき

感謝の心を思い出した人には

また、幸福を取り戻すことができるのではないだろうか・・・




もし本当に思考を停止させることができたのなら・・・

悟りを啓いたと言えるのだろう

極限状態に追い詰めることができたら

思考を停止させ、無の境地に赴くことができる

と言うが

肉体的に追い詰めただけでは無理な話ではないだろうか

精神的にも追い込むことが、今の人間(僕自身も)に可能なのだろうか?


別にぼくは宗教にかぶれているわけではないが

結局、行き着く先は同じ

永遠の課題なのだろうけど

本当に思考を停止させることができれば

本来の目的がみえてくるのだろう・・・




仕事を始めて5年も経てば

自分は仕事ができると勘違いしてくるもの

もちろん、そんなこと思わない人もいるのだろうが

ぼくは10年同じ職場にいて

その後、違う職場で働く機会に恵まれた

おかげで、ぼくもお山の大将になりかけていたことに気がついた

同じ職場にいると

その職場のシステムが当たり前となり

違うシステムに対応できなくなりがちだと思う

今の職場の常識は

他の職場の非常識もあり得る

ころころ職を変えるのも良くはないと思うのだが

同じところにずっといるのも考えものだ




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